竹谷さんだから聞けるパン職人の理想と挑戦-vol.4 フランスで地方に三ツ星があるように、高山でキラリと輝くお店として、発信し続け、未来を描く トラン・ブルー 成瀬 正さん
前編 後編

トラン・ブルー開店までのプラン、まずは知ってもらうために

 パンの道に入ったのはアートコーヒーでした。駅のコンコースに多数出店していた頃で、わき目もふらず働きました。先輩に恵まれ多くのことを教わりました。3年間務めましたが終盤はオープンのヘルプ要員で、いろいろな店舗に行きました。竹谷さんとの出会いはおそらく20年近く前、私が高山に帰ってからだと思います。JPB(ジャパンプロフェッショナルベーカーズ友の会)関連の総会か、講習会のときだったと思います。青年部主催の講習会で、はじめて講師を務めたのが、日清製粉の会場でした。ドンクの岡田さんとコンビで、岡田さんはまだ日本の市場にでていないクイニーアマンを披露され、私はリュスティックとクロワッサン生地のバリエーションを紹介しました。そんな頃だと思います。

トラン・ブルーの看板。トラン・ブルーは、フランス語で「ブルートレイン」。
桃のペストリーについて語る成瀬氏。
一つ一つのアイテムに対し、熱心に話しこむお二人。
 店のオープンまでには、ある作戦がありました。高山に帰ってまず会社を設立しました。フランスパンをレストランに売り込むところから始めました。そしてトラン・ブルーブランドのハイクオリティーの食パンを開発し、宅配を試みました。まずはトラン・ブルーを知ってもらうところからのスタートと考え、折り込みチラシを2万世帯に配りました。チラシの裏にアンケート欄をつくり、切り取って封筒になる印刷を施しました。パンを食べる頻度を聞き、週に3回以上食べる家にパンを無料で配布、週の契約をもらいました。地道に売り歩きマックス1200件と契約をしました。そのお客様たちに3年後に店を出します、1年後ですよ、1ヶ月後、半月後、明日からです、とチラシを使って伝えていきました。オープンのときは混乱するので少ないお客様からはじめたほうがいいといわれますが、高山のような人口も、文化も違う田舎では、ひっそりとオープンしてひっそりと消えていくことがあるんです。しかしさすがに煽りすぎてしまい、お客様の長蛇の列で車は大渋滞。オープン1時間半でパンが全て売り切れました。一旦閉店し、準備していた翌日分を焼き上げて再度オープン、結局3時間の営業でした。3日間徹夜でスタッフ3名と乗り切りました。スタッフは2ヶ月間研修しただけのいわば素人でしたから、ミキサー何分まわして、窯出るよ、と声をかけながらめん台で作業をするという奮闘ぶりでした。そのとき、開店待ちの長蛇の列を見て、絶対にこの人達を裏切れない、これからずっと高山でパンを作り続けなければ、と強く思いました。列の先頭は小学生3人組の女の子でした。彼女たちが大きくなって家庭を持ったあとも、この店が必要とされていて、高山の地にしっかりと根付いていなくてはいけないと思いました。彼女たちもいまは30代ですね。
 
 オープン当初はフランスパンを見たことがない人もいましたし、お店の入り口で靴を脱いで入ってきた人もいました。お客様も私も新鮮な気持ちではじまりました。パンやパンの食べ方を伝え、高山名産の朴葉味噌など地元の食材をパンをと合わせたり、一緒に成長してきたと思っています。

老舗家業の経営者としてかかわる学校給食

厨房の様子。窯の中には、焼き上がりを待つアイテムたち。
焼きあがったばかりのアイテムたち。すぐに店頭に並べられていく。
 家業は大正元年の創業で4代目となります。初代は和菓子を製造し、祖父にあたる2代目がパンをはじめ、先代の父が学校給食をはじめました。家業を継ぐつもりはなかったのですが、大学4年のとき、損して得をとるような信用最優先の老舗のあり方、守るすごさを考えるようになり、自分の代で火を消したくないと思いました。今までは魅力に感じていませんでしたが、新しい風を吹き込みながら家業を守るのも生きがいと考えパンの道にすすみました。
 
 トラン・ブルーのオープン5年後、父の他界をさかいに学校給食も手掛ける、有限会社なるせを経営することになりました。引継ぎもなく、突然のことでした。ちょうど工場が老朽化してきた時期で機械の入れ替えに奔走したり、工場の人の代替わりのときでもあり気苦労も絶えませんでした。学校給食として手掛けていたのはパンだけではなく、米飯の製造も行っていました。さらに喫茶店や学校の売店・病院給食への卸など、抱えるものは山ほどありました。トラン・ブルーのスタッフが育ってきた頃だったので、なんとかどちらも乗り切れましたが、大変な時期でした。今は県の学給の協同組合の副理事長もやっています。飛騨地方は広く、県の半分の面積があるので、責任もあり時間もとられます。最近では、内麦や米粉のパンの取り組みなども行っています。他県も同様でしょうがパン食は週1回、頻度が少なく気がかりです。

クープ・デュ・モンドでの予期せぬ経験と出場に込めた想い

クープ・デュ・モンド3位獲得時のカップ。
表情豊かなアイテムたち。
きらきらとしたデニッシュたち。細部まで美しく装飾されている。
 クープ・デュ・モンドに出場したいと思ったのは、父の死、そして母の介護が始まった大変な頃で、とてつもないものに気持ちを集中させておかないと潰れそうな精神状態のときでした。そこにあったのが、クープ・デュ・モンドでした。国内で優勝し、ヴィエノワズリー担当として世界大会に挑むことになりました。パンはストーリーから考えました。蜂の巣(Ruche)という作品は朝陽が昇り、森から蜂が飛び立とうとしているイメージでつくりました。会場にチョコレートの蜂の巣を持ち込んだところ、持ち込みの規制も厳しく取り上げられました。緩衝材のプチプチにホワイトチョコを流し込み蜂の巣をつくり直しました。前回お米の国の日本チームが優勝していたので、審査は慎重で厳しいものでした。それでも前日の1時間の仕込みが終わり、問題は次の日です。本番の朝到着するとマシントラブルがおこっていました。手動で冷蔵設定していったはずのドウコンが38℃になっていて、ブリオッシュ生地が溢れていました。クロワッサン生地もだめになっていました。夢を見ているのかと思いました。前日に仕込んだ生地を冷蔵で一晩熟成させる製法でトレーニングを1年半ずっと積んできました。一瞬にして状況が変化しました。でも立ち止まっている時間はありません。非常事態ということで審査員に掛け合っていただき、8時間の規定時間に1時間半プラスされました。しかし、すべて使うと心象が悪いので30分オーバーで仕上げるようにといわれました。パニックを通り超して妙に落ち着いていました。すると、いままでつくってきたレシピや製法が長い巻紙のように頭の中をすっと流れていきました。5分程で本番用の配合を書き替えました。ドウコンで溢れたトロトロの生地を加えようと瞬時に思い、量る余裕などないので感覚で適量を手にして入れました。当日仕込みの生地では8時間という時間の中、熟成に限界があると判断したからです。何とか30分オーバーで仕上げることができ、結果、部門別ではアメリカに次ぎ2位、チームジャパンは3位という好成績でした。心配しながらも信じて見守ってくれたチームメンバーには本当に感謝しています。
 
 クープ・デュ・モンドは世界の一流パン職人と競い合える素晴らしいステージです。日本では地方の個人店からの出場は私がはじめてで、ここで成功して次の人に繋げていきたいと思っていました。中央の会社やベーカリーだけでなく、地方のリテイルがこういう場にでてくることに意味があり、さらに頑張る姿を見てもらうことで日本のベーカリーのレベルが上がっていく、それを果たさねばという強い想いがありました。だから作品づくりにもトレーニングにも全力を注ぎました。沢山の人に支えられながら、自分のパンをつくれるよう、しっかりと積み上げました。本番のアクシデントを乗り越えられたのは、こういう想いがあったからだと思います。

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※店舗情報及び商品価格は取材時点(2011年9月)のものです。最新の店舗情報は、別途店舗のHP等でご確認ください。

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